昭和48年9月3日 原 紋太の霊神50日祭
五十日祭をとどここおりなく仕え終わらせて頂きました。
今日の御霊様のお喜びというか、又是からの御霊様の願いというか、是からの御霊様なりの決心というか、まあそう言う様な事をちらちらと頂いた事を聞いて頂きたいと思っています。信心と言う物が、おかげを頂くと願った事が成就すると言う事が、有り難いと思うておった信心から、真実私自身、所謂心が助かると言う事、どの様な場合であっても、喜べれるどの様な場合であっても驚かんで済む、どの様な場合であっても、勿体無い有り難いとこういうておれれる、それが信心だ。
その是からはね、おかげを頂く世界から信心を頂く世界に、もうそれに専念精進されると言う事が有り難いと。今日の御理解頂いてね、お知らせにあの真っ赤な二十日大根というのがあるでしょう赤い大根、あれを先に頂いて、それから次にあの、座り株の大根というのがあるでしょう、あれを頂いて、まあそれをその理解付け、言葉付けるとどう言う事かというとね。
長い間信心しておった、恥ずかしながらと云う事ですね、二十日大根と言う事、真っ赤になるけん、恥ずかしながらおかげを頂くと云う事の為に、一生懸命信心したと云う事です。けれどももうそれこそ、朝晩頂きに頂き抜いておった事だけれども、其処に気が付いていなかった事は、痛いのが治ったのが有り難いのではない、何時もまめなのが有り難いのぞという信心を是から頂いて行く。
病気をするお願いをする、おかげを頂いた、それが有り難いというのが信心、有り難いのじゃない、何時もまめであると云う事が有り難いんだと。そういう信心に是からは、もうそれに専念して、坐り株と言う事は、もう例えば御結界で先生方が座る、座る事が御道の信心だと言われるくらいに、もうその事に専念できると云う事です。今日御霊様の私唯有り難いと思う事はね、信心させて頂いておってならあちらに行かれても、お取次を頂いておかげを受けて行くと言う術を心得ておられたと云う事が有り難い。
けども長年信心させて頂いておったけれども、信心とはおかげを頂く事だと言う風に思っておった。成程おかげも頂かんならん、又頂いても来た。この神様はあらたかな神様だと云う事も、まあいうなら十分に分かった。けれどもあの信心を頂くと言う所に、是からは焦点を置いての、まあ分かり易い言葉で言うと、親先生があんなに仰りよったが、もうそのこちらに来て見れば、もうその通りで御座いますと。
こちらではもう力を持って行き、徳を持って行き、有り難い勿体無いという心を開いとかなければ、こちらでは愈々困る事の事実を身をもって感じた。というのが私は今日の五十日祭までの御霊様の、助かられて是から助かられて行くまあ、状態と言った様なものがね、この五十日祭によっていうならば、あの新御霊様から御霊様の列に加われる事がでけて、もう本気でその事にいうならお取次を頂いて、焦点を信心を愈々頂いてこりゃもう永劫の事なんだ。
そこでふんなら私達がですもうそれこそ仏教の真宗ですか、もう本当にもう昨日まで紅顔であったものが、愈々息が切れるともう二つの眼は閉じ色は真っ青になり、所謂もう白骨と化してしまわなければならない。後の者が嘆き悲しむけれども、それはもう仕方のない事、だから生前に本気で南無阿弥陀仏を頂いておこう、本気で南無阿弥陀仏を自分のものにしておこうと言う様な、経文があるでしょが。
と言う様に同じ事、私共今日の御霊が皆さんに願われる事は、確かに信心すると云う事はおかげを受ける事であり、ご利益を受ける事であるけれども、信心によって段々分からしてもろうて、分かった事分からなければならない事は、おかげを頂くと言う事よりも、信心そのものを頂くと言う事。昨日今日も繰り返し頂いておる様に、もう御道の信心でいう有り難い信心修行というならば。
もう愈々成り行きを尊ばしてもらい、成り行きを大事にさしてもらい、全ての事を御事柄として受けて行くという、天地自然の働きに逆らわないという生き方が、是がお道の信心を受けた者の心情でなからなければならない。金光様の信心をさせて頂いておる者の心情というのはそれなんだね、ですからその自然の働きそのものが神様の働きとして、それを従順に素直に受けて行くと言う修行が、この世での修行なのだ。
それをこんな難儀な事は、こんな困った事は困ります、向こうへ押しやる様な生き方からは、おかげは生まれても、信心は育たないと言う事を、まあいうならばあちらに行って見て初めて分かったと言う事。今まで頂いて来たご理解がなるほど親先生、あなたが仰っておった通りですと言う事なのだ。そこで後々の来らせて頂く者が、本当にそういう例えば仏教のそのお経紋じゃないですけれどもね、いかに嘆き悲しんだ所で仕方がない、だからこそ生前に本気で、所謂阿弥陀仏に帰依すると言う事です。
南無に帰依すると言う事は、天地の親神様のお心に添い奉ると言う事なのだ。天地の親神様の心に添い奉ると言う事、帰依すると言う事はそうなんだね、生神金光大神天地金乃神、一心に願え、おかげは和賀心にありと仰る。それが金光様のご信心なんだ。和賀心にありと言う事は、和らぎ喜ぶ心にあるのだと、一心に願え縋らせて頂く事は、和らぎ喜ぶ心を頂かせて頂く事の為に、精進するのだと。それにどうぞ商売が繁盛致します様に、どうぞ病気が治ります様にというそれもあらなければならない。
ある痛ければ痛い痒ければ痒い、生身をもっとるからそれも願わなければならないけれども、それは枝のものである、葉のものであって、根本の所はその、なら痛い痒い事を通して、真の信心を分からしてもろうて、有り難い修行をさしてもろうて、心の中に和らぎ喜ぶ心を開いて置けよというのである。この和らぎ喜ぶ心におかげがある。このおかげに人間の幸せの条件のすべてが整い、または伴うというのがそれなんだね、だから本気で和賀心を目指さしてもらう。
是からの御霊様はもうおかげ道と言う事よりも、いうなら和賀心を目指して愈々精進される事だろう。そして御霊ながらの安心の喜びまたは、御霊ながらの働きはです、後の遺族の者達の上にもね、現して行けれる力を発揮して行かれる事だろう、と私は思うんです。けれどもただその二十日、真っ赤な赤大根じゃないけども、恥ずかしながら、長年の信心を頂いておりましたけれども、拝む事は拝みよった、参る事は参りよったけれども、信心そのものは頂いてなかったという信者が、どれ程多いか分からない。
はあもう合楽ん参って見なさい、ご利益が新たかばい、と言う事だけでただ拝んだ参ったであっては、ただお取次を頂いておかげを頂くという道を知っただけであって、それでは、あちらでは役には立たんと言う事。あちらで役に立つ物は、私の心の中に開いた有り難い勿体無いという和らぎ、それはどの様な場合であっても、有り難いと言えれたり、思えたりする心を目指すと言う事。
したらそういう心を頂かせて頂く為の修行が成り行きを大事にして行けよと言う事だ。成り行きを尊んで行けよと言う事。全ての事はあなたに神様が求め給う修行なのだから、それを御事柄として、それを合掌して受けて行くと言った様な修行の中から有り難い。所謂有り難い痛いのが治ったのが有り難いのではない、何時もまめなのが有り難いのぞと言う事はです、健康というだけの事ではない。
今日この様にして、お生かしのおかげを頂いておる、まあいうなら食べる事にも事欠かないね、着る事にもまたは住まう、まあ衣食住それが頂けておるというなら、もうこりゃ最高のおかげなんだ。だからそのおかげに、満腹の喜びを感じてです、辛い事もあろう、冷たい事もあろう、暑い事もあろうけれども、そのつらい事寒い事暑い事も、感じん程しの有り難い心というのが和賀心、和らぎ喜ぶそういう心を、愈々開いて、しかも是は限りがない事無尽蔵、無限に続かなければならない。
そう言う事を始めて、ま悟らせて頂いた、御霊がそういう心を開いたと言う様な感じの今日はお祭りを奉仕させて頂いたと思うんです。けれども御霊が願っておる事、だから私が良い言うなら、手本なのだね、もうこちらに来てからはもう信心の喜び、信心の力信心によって頂く所の、御神徳以外には役に立たないのだと言う事。だからそれを願わしてもらう、求めさして頂くと言う事に、早よう気を早よう気付いてくれよと、早くそこん所に心を開いてくれよとね。
お葬式の時にお坊様が、あれは真宗だけでしょうけれども、あれは何とかという経文ですかね、もうそれこそ本当に親戚家族の者が寄り集まって嘆き悲しんでも、もうそれはどうにも出けない事なのだと。だから日にちが経つに従って、諦めたと言う様な事で、諦めが段々出けて来たと行った様な事ではまたつまらない。愈々その御霊様に対する所の同念の心というかね。
または御霊様が残して下さった信心と言った様なものを愈々頂いて、御霊様のあの、あれを境に私どもも本当におかげを頂かなければならんが、信心もまずは頂かなければならない心をあれを境に開かせて頂いたんですよといや、御霊様にお礼が申し上げれる事になる。そこに御霊の喜びもある、私ども遺族の者のまた喜びもある。そういう大変ないうなら、教えをしてくれた御霊様という感じであります。
二十日大根のいうなら真っ赤な恥じらいの感じというです、感じでしょうかね、私が頂く感じがね、恥ずかしながら長年信心させて頂いておったけれども、成程広大なおかげも次々頂いて来たけれども、信心そのものを頂いてお願いをする、おかげを頂いた、有り難いと思っておったけれども、お願いはせんでも頂いておったおかげ、何時もまめなのが有り難いと言う事が、そこが実感として有り難いと分かる信心に、是からは進んで行こう、是はあの世この世を限らずね。
あの世この世を御霊様も私共も遺族、残っておる者もですね。そこに焦点を置いての是からの信心生活がなされて行くと言う事が、御霊様に応えると言う事にもなりゃ、御霊様に送ってあげる事もでける事になりゃ、また御霊様から送ってもらうと言う事もでける働き、此処の所をね、ふんなら愈々成り行きを大事に、自然を大事にすると言う事は、自然に逆らうから自然がまた逆らうのだとね。
今朝からの御理解頂いて見ても、だから御道の信心はもう自然の働きその物に素直に従順に応えて行くという生き方、だから神様もまたね、それこそ願わんでも頼まんでも、おかげを送って下さると言う事になるのです。世の中が愈々妙な風んなって来た。もうあっちこちらで、例えば暑いはずの所で雪が降ったりね、例えば転変地変といった様な事が起こって来るのはね、昨日桜井先生が仰っておられた様に。
ある学者の説だそうですけれども、人間が自然を征服するとかね。自然にさかろうて行くと言う事が、やはり自然がまた、人間にさかろうて来るんだという。人間が例えば逆らうくらいの事はこのくらいである、一握りぐらいじゃろうばってん、神様が逆らいなさると言う事になったら、もうそれこそあっという間に千人、二千人の命が、亡くなる様な事にもなって来る。こりゃ自然が人間の世界に逆らっておる姿。
そこで私共がいち早くそこを心を開かせてもらい、悟りを開かせてもろうてです、自然に征服するとか、逆らうという生き方からです。自然の働きそのものを本気で合掌して受けて行こう、受けにくい所は、金光大神のお取次を頂いてどうぞと縋って受けて行くという生き方の上に自然がまた、私共の上に限りない、いうならば、私共の為に自然が素直になっておかげを下さる。
金光様がお言葉に、私共に下さってある様に、氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからと仰る。私共が先ずは、神様任せの信心生活に、入らせてもらう所から、限りのない神様が、私共任せになって下さると言う程しの、世界が開けてくる。そう言う事をです、原さんたちも、一家の上にもね、小さいながら矢張りそういう手本をま、示して行っておられるのですけれども、やや大きい手本を示しておるのは、合楽教会だと思うのです。
神様がおかげを下さろう、神様が私ども任せになって下さっておる姿が、現在合楽の御比礼だと言う風に思うです。だからそこんとこのいうなら要の所、肝心の所をこちらへ行けばおかげ、こちらへ行けば、御神徳と言う様な、その信心という、信心の方へ本気で心を気付かせてもろうて、それこそ、日々有り難い勿体無いで生活のでけれる信心を、目指して行かなければならないと言う事を、今日の御霊様は、もう繰り返し教えておられるという感じが致します。
どうぞ。